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ママイ(Mamai、? - 1380年)は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の軍人・政治家。キヤト部の出身〔川口「キプチャク草原とロシア」『中央ユーラシアの統合』、286-287頁〕。現在のウクライナ南部・クリミア半島に渡る地域を支配していた。 史料ではウズベク・ハンの即位に功績があったキヤト族の貴族イサタイの甥、またベルディ・ベク・ハンの女婿と伝えられる〔。 == 生涯 == === ハンの擁立者 === 1350年代の末期、ママイは後のクリミア・ハン国の支配領域となる地域を領有していた。ベルディ・ベク・ハンの在位中、ママイは国家の軍事・外交・裁判を司る万人隊長(ベイレルベイ)の地位に就いた。 1359年にベルディ・ベクがクルナによって暗殺された後、ママイはクルパと敵対する党派に加わった。ベルディ・ベクの死後に混乱期に入ったジョチ・ウルスでは、多くの王族がハーンの地位を争い、クルナは即位から6か月も経たずにナウルーズによって暗殺された。 ママイはチンギス・カンの血を直接引いていなかったが、ハンの擁立に強い影響力を有しており、ウズベク・ハンの末裔であるアブドゥッラーを初めとする多数の王族をハンに擁立した。ジョチ・ウルスはヴォルガ川を境に東西に分裂、ママイはヴォルガ以西のキプチャク草原、クリミア半島を支配し、東の白帳ハン国の指導者オロスと敵対した。ママイとアブドゥッラーは一時的に首都のサライを制圧し、ヒジュラ暦768年(1366年/67年)にアブドゥッラーの名前を刻んだ貨幣がサライで鋳造された〔。 ルーシ諸侯もママイの権威を認め、1371年にモスクワ公ドミートリーがウラジーミル大公位を得るためにママイの元に赴いた際、ドミートリーはハンよりも先にママイに向かって敬意を表した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ママイ (キヤト部)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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